2009年10月25日 (日)

「平和まつり」に出演・寝屋川

 今日は、寝屋川団地と三井団地の九条の会の共催で『平和の
集い』がありました。

 ゲスト講師としてお招きを受け、『昨年の11月の寝屋川革
新懇での、満州のお話が、とても心に残る良いお話だったので
、是非お願いしたい』と、申し込みがあり、朝から寝屋川に行
ってまいりました。滅多に『おけいはん(京阪電車)乗らない
ので、ちょっと戸惑い気味で、寝屋川市駅の反対側に降りて待
ってましたが、携帯電話の便利さで、お迎えの方と回り逢い、
無事会場へ、到着しました。

 少子化現象で、廃校になった『旧明徳小学校』の体育館で催
されたのですが、現在は地域の公民館的なことに使用されてい
て、グランドでも、少年野球や、その他に活発に少年たちが走
り回っていました。

 控え室は、図書室でした。出迎えてくださった方で、開会の
挨拶をされた方は、元は名門北野高校の校長先生で、なんと満
州生まれの満州っ子で、私より2歳若い76歳の方でした。ゆっ
くりお話もしたかったのですが、イベント中はお互いに忙しい
ので、また日を改めることにしました。

 講演と歌(ギターの弾き語り)すずききよしさんと、正面に
書いて貼ってあリ、音響装置も、きっちりしたもので、マイク
はシュワーの58、ブームスタンドも準備してあり、モニター・
スピーカーも足元にあり、安心して喋ったり、歌ったり出来ま
した。

 「1931年生まれの私は、生まれた年に『満州事変』が勃発、
小学校1年入学した年に、支那事変勃発、小学校から国民学校
に、名前が変わって太平洋戦争が始まって、本当に戦争の申し
子みたい・・・」と、軽く始まって、学徒動員で、航空隊の基
地に行く時に、語学のF先生の言葉、私や、先輩の方を抱くよ
うにして、耳元で、『ええか、死んだらあかん。絶対死んだら
あかん。どんなことが有っても生きて帰って来いよ。そして、
また一緒に勉強しような!』

 もしプラットホームに憲兵隊がいたら、即逮捕、監獄行きに
なる危険な言葉でしたが、一生涯忘れられない言葉でした。

 また、動員先の航空隊での、特攻隊の最後の言葉などを話し
ました。

 そして、リクエストの有った「トーキングブルース・内地に
帰ろう」の弾き語りをしました。会場は、すすり泣きや、鼻を
かむ音さえ聞こえる状態でした。

 次に、『風化』の歌をを準備していたのですが、マネージャ
さんから、時間切れの合図があり、短いコミカルな、トピカル
ソング『庭の小梅』で、皆さんの気分転換をして頂き、「宜し
かったらCDを少しだけ持って来ております。宜しかったら割
り引きサインセール中ですので、お買い上げくださると、私の
生活も助かります。」と、ご挨拶しておりましたら、CDをお
買い求めの方が沢山ありました。

 年配の方が多かったけど反応は上々でした。
  

2009年9月 9日 (水)

わが街へ帰ろう

市街地に入ると、まるで市街戦が有った様な感じで、あちこちに負傷者や,死者が未だ転がっていました。

 母親の乳房にすがって泣いている幼児、母親はすでに死んでいて、乳房は朱に染まっている、胸をやられていて、幼児が吸ってもでてくるのは血しかないのだった。幼児は泣きながら咳き込んで、又泣いていた。

 砲弾のかけらは「ギザギザのプーメランみたいなもので、回転しながら、物凄い速さで飛び回って、首に当たれば首を飛ばし、腕に当たれば腕を飛ばしてしまう、だから、お腹を掠めただけで、お腹が切れて腸が「ニョロニョロ」とでて来ます。お腹の中は腹圧で抑えられているけど傷口が開くと、まるで、うなぎか蛇のように、腸が一人で出て来ます。一人の母親が出て来る腸を片手で、押し込もうとしながら、片手で赤ん坊を抱き寄せようとしていました。彼女はもう瀕死で、目が見えないようでした。

 何かして上げなければならない、けど、迂闊に触ったり動かしてはいけないし、どうすればよいのか。ちょうどそこに、住民が数人現れました。担架代わりの板に乗せて、運んでいきました。

 劉君が住民の一人に尋ねました。「市街戦があったの?」「不是、空から爆弾がいきなり落ちてきた」との事。生きている人が「シュルシュル」と音がしたと思ったら、「ドカーンだった」とのこと、飛行機は飛んでいないから、大きな砲弾だと思う。」

 「お前たちは何だ?」「八路軍に徴集されて、塹壕堀や雑務で働いてたけど、隊長が四平に親がいるなら帰っても良い」と言って、解放してくれたので四平に帰るところです。」と言うと、「少年兵か?」「不是、中学生(ちゅんしえしょん)です」と応えると、安全な道を教えてくれて、「四平の街に入るなら銃は捨てていった方が良い。」反対側の兵士がいたら殺されるよ」と教えてくれましたので、銃や弾薬を、その人にあげて、玉蜀黍の蒸しパンを貰って、歩きました。

 劉君の家は鉄東区、私は鉄西区,途中で別れ、夕方近くなって、満鉄社宅の我が家に帰りついたときの母の驚きと喜び、「まあ生きていたのね。あの部隊は全滅したとか噂だったけど」激戦区に入る前に帰った人から聞いたらしい。

「良かった良かった、早速風呂を沸かして「早く入りなさい。臭い、臭い、」10日間近く塹壕の中や野宿や、着のみ、着のままで、動き回ってたのだから、(食べ物の件)もあり、臭いのは当たり前、体を洗って、シャツを着替えてほっとしました。
 「なんだか獣臭いわね。」と母が言ったが、「野犬との死闘」などは、母が昨年102歳で亡くなるまで、話したことはありません。

 祖母は「きよちゃん、なんだか大人っぽくなったね。戦地に行ったからだね。」と片目を瞑って、ウインクした。

 「何も言うな!と言う意味だな」と、何も言わなかったけど、何か感じ取ったかもしれません。

食うか食われるか(2)

目を凝らして見ると、間違いなく仔山羊です。
 農家に飼われていた仔山羊なのか、逃げようともせず、逆に私の側に寄ってくるのです。

 思わず劉君の顔を見ると、「チーバ(食べよう。)」「チーバ(食べよう)」蒙古人の友人が言ったことを思い出しました。「山羊とか羊、とか馬は、生で食べても良いのだ。豚や、犬、狸は、焼かないと食べてはいけない。病気になる。」

 「ごめんね。」と、仔山羊を抱きしめながら、ナイフで頚動脈を切り、大急ぎで捌きました。

 前足と後足、一本づつ、分けて、ナイフで切りながら食べました。空腹の私たちにとって、「神様からの贈り物」だと思いました。

 内臓は1mくらい深い穴を掘って埋めました。野犬たちに後をつけられないように埋めたのです。

 とにかく、これで二日は空腹を凌ぐことが出来ました。
しかし、とうとう恐れていた野犬の群れに遭遇しました。牙をむいて恐ろしい顔をして、唸っています。「間違いなく飛び掛ってくる。」と思った瞬間引き金を引いていました。

 先頭の一番大きな奴が一旦飛び上がるようにして倒れました。
眉間に命中でした。痙攣しているのに、他の野犬が飛びついて行き、食い出したのです。共食いです。身の毛がよだつとはこの事でしょうか?

 次にでかい奴が劉君の方に向かおうとした瞬間、劉君の銃も火を噴きました。「八路軍の隊長さんが「野犬は3頭倒せば大丈夫だ」と言っていた。3頭目も倒した。本当に、野犬の群れは逃げ出した。「本当だ、3頭倒したら逃げ出した。俺たちは助かったのだ。」二人で3頭目の四肢を捌いた。「肢だけでいいよ」

前足も後足も、膝から上だけをとり、それでも随分大きかったから、充分だ。」
 後は埋めた。そして、林の中で火を起こし、よく炙りながら焼いた。

 美味しい匂いがした。焼きあがりぱくついたが、塩もソースも何にもかけなくても、美味しかった。

 「もし、負けたら。この野犬たちのお腹の中に入るのは、俺たちだったんだ。」と二人は顔を見合わせた。

 「他の連中はどうなったんだろう。」二人は、「・・・・・・・」
それから二日後、郊外の見覚えのある町に、入った途端、戦争の後は生ま生ましい風景が目に飛び込んできた。

食うか食われるか

 八路軍の隊長から、「日本軍と中国軍のどちらが侵略者か?」と言う質問のなかに、「今どこで戦っているか?日本国内か?それとも中国国内か?」「それで判るだろう?」もし日本の本国で戦っているのなら、文句なしに、中国が侵略軍で、日本軍が祖国を守っている愛国者の軍隊」と言うことになるだろう。
 
 これは、実に判り易かった!「今まで、日本が戦争していたのは、中国も、アジア諸国も、みんな他国に行って、戦っていた。

 「アメリカや、イギリスの植民地から解放するために」などと格好いい事を言って、実はアメリカやイギリスに代わって、日本が支配して、その利益を吸い上げようとしていたのだ」と理解できた。

 「君は、満州生まれの満州育ち、ここは君の祖国でもある。そして、君の父母、両親の祖国、日本も又、君の祖国でもある。

 君は、無事に日本に帰ったら、この二つ祖国の架け橋となって、二度と戦争しないように、頑張って欲しい。」と、言われました。

 12人の少年たちは、四平の街に向かいました。

 昼間は国道をまっすぐ歩くのは危険なので、高粱畑をの間の道や、村々の境目に当たる道筋を、地図と磁石と、見比べながら、歩きました。国道からあまり離れないように、目立たないように。時々休憩しながら、時間を決めて、食事をしようと提案しても、年上の連中は、勝手な行動をとり始めました。夜になると、狼か野犬の遠吠えが聞こえました。両側の山にこだまして聞こえます。

 あれは狼の声です。「狼が2箇所で遠吠えしているようだと、この近所には兵隊はいない」と判断しました。

 「みんな、絶対に離れ離れにならないようにしてくれ」と言いました。「両側に狼の声が聞こえるから火を焚こう」その晩は無事でした。

 年長の3人が、「食料を探してくる。」「早く隊列に戻るように」と、声をかけても、彼らは、行ってしまいました。

 そうして、少しづつ、隊列を離れるものがあり、かえって迷い込んで、敵の流れ弾に当たったり、野犬の群れに襲われたりしたのか、人数が減っていきました。

 4日め、そろそろ、乾パンも水も尽きかけて来た時、農家の屋根がフッ飛んでし、壁だけ残ったのがあって、「あの中に種玉蜀黍が干してあるかも知れない」と,もう5、6人しか残っていない仲間で入って行きました。確かに、度をかぶった土レンガの壁に種玉蜀黍が干してありました。坑(カン)炊事場に有る大きな竈で、火を焚くと、床下を通って床下暖房に。朝鮮のオンドルと同じ構造。

 高梁がらを入れて火をつけました。炙ると美味しそうな匂いがしてきました。
 そのときです。背筋が「ゾクゾクッ」として、危険な予感がしました。「危ない!逃げよう」「ッゾウパ」と、銃と焦げた玉蜀黍を1本持って裏にある大きな穴に飛び込みました。(野菜貯蔵用の穴倉です。)
みんな未だ来ません。劉君と私だけ・・・・数秒後「ババーンバリバリバリ」と集中射撃。数十秒で1,3mくらいの高さの壁は、30cmほどに。もちろん、生き残ったのは二人だけ。足ががたがた震えて立つことも歩くことも出来ずに、穴倉の底で震えていました。

 何時ごろか、暗い中を、二人はそっと歩き出しました。
夜明けごろ、何か獣が近づいててきました。

 親に、はぐれたのか、仔山羊でした。

八路軍は規律正しかった

 日本軍も、ソ連軍も、国府軍も、ちょっと貸してくれと、持って行っても、戻しに来ることは,滅多になかった。
 しかし八路軍はそうではなく、実にきっちりとしていた。

 激戦の後、敵、味方の負傷者を収容するのに、学校を臨時の病院にしましたが、ベッドが足りないので、日本人の家に畳を借りに来ました。
 住所、住宅番号氏名などを、きちっと書き止め、家人に確認して借りて行きました。
 
 移動するときも、一戸毎に畳の裏の名前住所を確認、しかもきっちり消毒して、1枚につき,いくらと,規定の金額(僅かですが,どこの軍隊もしたことがない)を、払っていったのです。

 国府軍も、八路軍も、塹壕堀りの使役を、町内会毎に割り当ててきましたが、国府軍は日本人だけを徴集しましたが、八路軍は「この街を守るのは、この町の住民全体の義務である。同じ町の住民を国籍で差別してはならない」と、日本人も中国人(満州人)も朝鮮人も同じように集められたのです。

 私たちの街は、満鉄本線、平斉線(四平とチチハル)、平梅線(四平とハイラル)、など、多方向行きの鉄道が交差する重要な街でしたから、4回も奪回、奪回の繰り返しの末、最後は八路軍の正規名「中国人民解放軍」が勝利を収めたのです。

 私は、父が中国側と鉄道業務の引継ぎのため、出張が多かったので、代わりに、八路軍に2回、国府軍に1回徴集されていきました。

 八路軍に2回目の徴集された時は、200km以上の移動、転戦で、最後に最前線で,敵側の大部隊に包囲され、「これから危険な便衣活動(ゲリラ活動)に入るので、ここで、現地徴集してきた少年たちの中で、希望するものは解放する。家もなくなったし、両親も亡くなって、帰っても身寄りのないものは、正規な兵士として編入する。解放後には、学校にいきたいものは学校に行かせるし、仕事をしたいものは仕事に就けるように教育する。街に帰りたいものは挙手せよ。」私はもちろん親もいるし、家族もいるし挙手しました。

 挙手したものは、12名、隊長は「よし、後で食料、飲料水、銃器、弾薬を渡すから準備しなさい。夜明けと共に出発する。
 指揮は「リンムーチンが取る、彼は小さいけど、諸君はきちんと指示を守ること。」みんな、15歳から17歳位の少年たち、日本人は、年上の一人と私だけ、中国人(満州人)7人と朝鮮人3人計12人。

 「このあたり10km以内で、発砲するな。敵軍に見つかる可能性があるから、規律を守ること。

 野菜汁や、肉汁でこねて、堅く焼いた、携帯食の乾パン、一旦沸騰させた開水を水筒一杯。堅い乾パンは一回に2枚か3枚、水は飲むな。舐める。そして口を良く動かしてかむと水は沸いてくる。生水は絶対飲むな。飲んだら病気になって死ぬと思え。隊列は離れるな。狼や、野犬の群れが待っている。弾薬は無駄に撃つな。」

「狼の群れは、銃を持っている者を、むやみに襲っては来ない。野犬の群れは、襲い掛かってくることがある。飢えている時だ。先頭の奴を1発でし止めろ。それでもかかってきたら次の奴を撃て、3頭し止めたら、あきらめる。食っても良いけど絶対生では食うな、焼いて食え。」

「食わなきゃ食われる、それだけは忘れるな。」

「道を間違えずに順調に行けば、4日目には着く筈だ。」
 そして出発の前夜、隊長は「リンムーチン、来把(ライバ)」と呼んだ。
「鈴木君、君ならやれる、無事に帰りつけよ」驚いたことに流暢な日本語、「私は元日本軍人だった。重傷を負って前線で捨てられていた。
解放軍に助けられ何度も手術を受けて、元気になった。

 そして延安で軍の学校に行き、いろいろ勉強した。一つだけ覚えておいて欲しい。中国と、日本の戦争はどちらが侵略者で、どちらが国を守る愛国者かね?学校で習ったことは、別にして、考えて見よう。

   (つづく)
八路軍は、全然違います。軍律が厳しくて、初めから野放しにしません。①盗まず、②奪わず、③犯さず、紙一枚と言えども、人民の所有するものを、掠め取ったり騙し取ったりしても、厳罰に処す。」と言うのは徹底しています。もちろん、厳しい刑罰を受けます。

 激戦の後、敵、味方の負傷者を収容するのに、学校を臨時の病院にしましたが、ベッドが足りないので、日本人の家に畳を借りに来ました。
 住所、住宅番号氏名などを、きちっと書き止め、家人に確認して借りて行きました。
 
 移動するときも、一戸毎に畳の裏の名前住所を確認、しかもきっちり消毒して、1枚につき,いくらと,規定の金額(僅かですが,どこの軍隊もしたことがない)を、払っていったのです。

 国府軍も、八路軍も、塹壕堀りの使役を、町内会毎に割り当ててきましたが、国府軍は日本人だけを徴集しましたが、八路軍は「この街を守るのは、この町の住民全体の義務である。同じ町の住民を国籍で差別してはならない」と、日本人も中国人(満州人)も朝鮮人も同じように集められたのです。

 私たちの街は、満鉄本線、平斉線(四平とチチハル)、平梅線(四平とハイラル)、など、多方向行きの鉄道が交差する重要な街でしたから、4回も奪回、奪回の繰り返しの末、最後は八路軍の正規名「中国人民解放軍」が勝利を収めたのです。

 私は、父が中国側と鉄道業務の引継ぎのため、出張が多かったので、代わりに、八路軍に2回、国府軍に1回徴集されていきました。

 八路軍に2回目の徴集された時は、200km以上の移動、転戦で、最後に最前線で,敵側の大部隊に包囲され、「これから危険な便衣活動(ゲリラ活動)に入るので、ここで、現地徴集してきた少年たちの中で、希望するものは解放する。家もなくなったし、両親も亡くなって、帰っても身寄りのないものは、正規な兵士として編入する。解放後には、学校にいきたいものは学校に行かせるし、仕事をしたいものは仕事に就けるように教育する。街に帰りたいものは挙手せよ。」私はもちろん親もいるし、家族もいるし挙手しました。

 挙手したものは、12名、隊長は「よし、後で食料、飲料水、銃器、弾薬を渡すから準備しなさい。夜明けと共に出発する。
 指揮は「リンムーチンが取る、彼は小さいけど、諸君はきちんと指示を守ること。」みんな、15歳から17歳位の少年たち、日本人は、年上の一人と私だけ、中国人(満州人)7人と朝鮮人3人計12人。

 「このあたり10km以内で、発砲するな。敵軍に見つかる可能性があるから、規律を守ること。

 野菜汁や、肉汁でこねて、堅く焼いた、携帯食の乾パン、一旦沸騰させた開水を水筒一杯。堅い乾パンは一回に2枚か3枚、水は飲むな。舐める。そして口を良く動かしてかむと水は沸いてくる。生水は絶対飲むな。飲んだら病気になって死ぬと思え。隊列は離れるな。狼や、野犬の群れが待っている。弾薬は無駄に撃つな。」

「狼の群れは、銃を持っている者を、むやみに襲っては来ない。野犬の群れは、襲い掛かってくることがある。飢えている時だ。先頭の奴を1発でし止めろ。それでもかかってきたら次の奴を撃て、3頭し止めたら、あきらめる。食っても良いけど絶対生では食うな、焼いて食え。」

「食わなきゃ食われる、それだけは忘れるな。」

「道を間違えずに順調に行けば、4日目には着く筈だ。」
 そして出発の前夜、隊長は「リンムーチン、来把(ライバ)」と呼んだ。
「鈴木君、君ならやれる、無事に帰りつけよ」驚いたことに流暢な日本語、「私は元日本軍人だった。重傷を負って前線で捨てられていた。
解放軍に助けられ何度も手術を受けて、元気になった。

 そして延安で軍の学校に行き、いろいろ勉強した。一つだけ覚えておいて欲しい。中国と、日本の戦争はどちらが侵略者で、どちらが国を守る愛国者かね?学校で習ったことは、別にして、考えて見よう。

   (つづく)

ソ連軍がやってきた

ある夕方、ソ連兵が我が家にも、押しかけてきた。二人連れの若い兵士が、喚きたてている。

 鍵は閉めていたが、夕方といっても満州の初秋は未だ明るい。
 祖母が、「きよちゃん、開けてやりなさい。」と、何故か毅然として言った。「お祖母ちゃん、大丈夫?」とたずねた。自動小銃持ってるよ。」
「兵隊は鉄砲持って当たり前。大丈夫」
 私はおっかなびっくりでドアを開けた。
 いきなり、、土足のまま、家の中に上がろうとした。
 
 お祖母ちゃんは、聴いたこののないような、低い落ち着いた声で
「ネリジャ!」といった。兵士はギクッとして立ち止まった。
 それから、ロシア語で、何か言った」後で聞くと、
「お前たちは泥棒か?」初めてよその家に来て挨拶もせずになんだい?
お前たちのお母さんはそんなことを教えたのかい?」

 ソ連軍の兵士たちは、小さなお婆さんに、まるで母親が叱る様に言われて、度肝をぬかれたらしい。口をもごもごさせて、立ち往生していた。お祖母ちゃんは、今度は優しい声で、「お前たちは、お腹が空いているのかい?」と言った。

 彼らは、「ニエット、ニエット」と、後ずさりして、「ダスビダ―ニャ」(さよなら)と、今度は挨拶して帰って行った。
 帰りにお祖母ちゃんが「ここは日本人の鉄道員のの住宅だから、憲兵が良く巡回に来るから、又来ると捕まるよ」と言ったらしい。
  
 我が家のお祖母ちゃんは、近所の英雄になってしまった、ソ連兵士が来ると、近所の人が呼びに来た。

 ところで、満州に最初に来た部隊は、後で聞いた話では、市内に侵入してきたのは最前線の、弾除け囚人兵で、「どっち道、弾除けだ。後ろからは味方の本隊の銃口が、向けられて脱走を防いでいるし、」やけくそで悪辣なことをしたらしい。

 本隊の入城式が終わると、各地で人民裁判があった。悪いことをしたものをソ連軍の司令部に、日本人会が抗議に行ったところ、部隊内でも目星をつけたのか,市民を公園に集めて,「この兵士がやった」多数の証人が言うと、その兵士の階級章を引き剥ぎ、軍帽も取り上げ、立ち木に後ろ手に縛りつけ、もう一度市民たちに、「やった犯人はこの男に間違いないか?」と、確認し、即銃殺した。これはショックだった。
 
 本隊の入城式は、私にとって「カルチュアー・ショック」だった。

軍帽を小粋に横っちょにかぶり、首にはマフラーを巻いて、トラックで「合唱しながら、国道を行進するのである。「カチューシャ」とか「カリンカ」とか、びっくりするほど明るく、2部合唱や、4部合唱で歌っているのだ。
 トラックの運転台の屋根に後ろ向きにアコーディオン弾きが座って、まるでプロの音楽家のように弾くのに合わせて、兵士たちも、プロの合唱団のように合唱するのだ。

 日本の軍隊は、4列縦隊で、足並みを揃えて、隊長が「万朶の桜か
襟の色、ハイ」「万朶の桜か襟の色」と1節毎に繰り返し,しかもユニゾンで,蛮声を張り上げて、音痴に歌うのと、全然違うのだ。

 そして戦車の大きさ、70㌧とも80㌧とも言われていたが、実物を見て、「これに背嚢爆雷を背負わされて飛び込む予定だったのだ!」 
「これは勝てないなー」と実感した。

 中学1年のときに体験入隊した、日本陸軍の戦車は大きい方で20㌧まるで、大型ダンプと、軽トラックほどの違い、いやもっと違うかもしれないと思った。もう少し敗戦が長引いていたら、きっと、飛び込まされていたに違いない。 

 

敗戦の日

 私たちの街に避難命令が出て、「携帯するもの、夏冬の衣料費点づつ、予備の靴一足、食料品は日持ちのするもの3日分、・・・・」とにかくリュックサックに詰め込んで、大人も子供も自分のものは自分で背負い、水筒には煮沸したお湯を冷まして入れて、肩からかけて、朝早くから、四平駅に集合した。

 8月9日に「ソ連が宣戦布告と同時に、越境してきた」とラジオで聴いたが、父は殆ど職場の方に詰めていたが、12日に「明日あたり避難命令が出るかもしれない」最小限度のものをそれぞれリュックに詰めて準備しなさい。」
 そして、13日から、毎日駅前に集合しては、軍用列車が兵士達を満載して南へ南へと次々と走り去るが、われわれ市民は見送っているだけ。夕方まで待たされて、「解散」。14日も同じ状況だった。
 
 そして15日も朝から駅前に集合していたが、正午前に駅のスピーカーから、
「皆さん。12時から重大放送がありますから、静粛に、皆さん、静かに聴いてください。
 畏くも、天皇陛下の玉音放送がありますから」そして君が代行進曲の一節が放送され、昭和天皇の放送があったが、ラジオをダイレクトにスピーカーに接続したのでなく、マイクを通しているのだろうか?「ピーピー、がーがー」の、ノイズ交じりに、「・・・・耐え難き耐え、忍び難きを忍び・・・」がーがーぴーぴー」で、放送は終わり、駅長さんの声で、「戦争は終わりました。一応、皆さん、本日の避難命令は解除と言うことで、解散してそれぞれのお宅にお帰り下さい。」詳しいことは判らないものの、家に帰り釘付けした釘を抜き、鍵を開けて、家に入りました。

 やがて、友達たちが集まってきました。「戦争に負けたって、無条件降伏だって。」「そんな馬鹿なことがあるか、日本は神国だから、いよいよとなれば神風が吹くって・・・」「そうだ、先生もそう仰ってたじゃないか。」

 やがて仲の良い満州人(中国人)の友達も集まってきました。

「大変だ、日本は、アメリカ、イギリス、ソ連、中国の連合軍に降伏したぞ」と、
「大人はみんな大騒ぎだ、ソ連軍はたち悪いそうだ」「中央軍が来るか八路軍が来るか」もうめちゃめちゃだ」

 一人の日本人の少年が「日本は神様が守っているから、負ける訳ないだろう」
満州人の少年が「日本には日本の神様がある。中国にも中国の神様がある。アメリカもイギリスも、ソ連も、どの国もそれぞれの神様がある。それぞれの人民は神様殻見ればわが子だから、どこの神様も自分の国の人民を守る。これ当たり前、だから、神様の問題じゃない。
 日本は世界中の国と戦争した。初めはドイツも、イタリアも同盟したけどみんな負けた。今は日本だけだ。これ仕方がない」

 私は言った。「みんなどう思う?
日本が戦争に負けた、敗戦国だ、俺たちは敗戦国民だ。満州は中国に統合されるだろう。君たちは、もう俺たちとは遊ばないか?」すると、満州人の友達は「不是、不是」と首を振りながら、「リンムーチン(鈴木清の中国読み)は、今まで、同じ仲間として差別なく遊んできた。だから、俺たちも差別しない、戦争、勝った負けたは、大人の世界よ、俺たちは今までと同じさ」「そうだそうだ」

 8月15日は、そうして暮れて行った。

だが・・・・・・・(続く)

<<前の日記へ きよちゃんの日記一覧へ 次の日記へ>>
コメントコメントを書く
today 2009年08月16日 09:31 生きている敗戦の記念日の歴史ですね。
リアルに伝わってきます。
続くとあるので、次回をお待ちしています。
激動の戦後史だったでしょうね。 コテルさん 2009年08月16日 11:54 平和のための戦争展などで、いろんな方々から聞いてはいましたが、きよちゃんさんの日記をあらためて読ませていただき、よりみじかにかんじます。きよちゃんさんの歌、聞いてみたいですね。 きよちゃん 2009年08月16日 14:05  あくる日から、父は満鉄の職場に出勤した。未だソ連軍は市街地には入城していない。各地から暴動の噂が流れてくるが、四平市は、比較的平和だった。 

 戦時中は、隣保班、所謂隣組組織は市内の末端まで組織されていたので、連絡網は行き届いていたが、その後、難民化した日本人が次々と、前線地区から避難してきた。

 取りあえずお寺などの一部に、収容してもらったり、臨時の収容所を作った。ソ連軍が攻撃して来た時、列車に先に乗ったのは、関東軍の幹部その次に、軍隊やその家族、官庁関係も、幹部が優先、一般の市民は後回し、やっと貨物列車に飛び乗ったが、途中で列車の襲撃されて、おろされ、徒歩での避難。難。ぼろぼろの状態で,食料も尽き、途中で何人も行き倒れになったり、半死半生でたどり着いた人たちで、いっぱいになった。

 私たちは、、家に有るものを届けたり、自由市場で立ち売りをして、お金を届けたり、今で言うボランティア活動の真似事をしていました。

 ある日満州人の友達が息せき切ってやって来た。「どうした?」
「大鼻子(ターピーズ)来了」「なに?ロスケが来たの?」ソ連軍がとうとうこの街にも来るらしい。

 ソ連軍の兵士は、72連発の自動小銃を持っていて、何処でも構わずぶっ放し「金を出せ」「女性を見れば片っ端から強姦する」と言う話が伝わって来た。(つづく)

 事実、かなりの日本人が被害に逢っている。

2009年9月 1日 (火)

作詞作曲は誰でも出来るが・・・


 「誰でも心の中に歌を持っている、だから誰でも作詞でも作曲でも出来る」と言うのは、昔から私が言ってきたことです。

 「君もなれるシンガーソングライター」と言う本や、「フォーク教室」と言う本を出版したのは、1970年代でした。それは、その当時、青年・学生対象の新聞に、読者の作詞作曲した作品を、添削指導する「みんなの歌」と言う欄を受け持っていたので、そのテキストのような気持ちで書いたものでした。

 こんなことを言うと、私は楽譜も自由に読み書きできないし、音楽理論なんて知らないし、そんな簡単に、作詞や、作曲ができるはずありませんよ」と言う返事が返ってきます。

 勿論、音楽のことを何にも知らずに「オーケストラを書け」と言われてかける人はありません。しかし自分が歌う歌を、自分で作ることは、三歳くらいの子供でも作って歌うこと出来ます。」

 「そんな無茶な!」と仰る貴方、3歳児が一人遊びをしているのを知らぬ顔で見ていて御覧なさい。たとえば自分のお人形に、ベッキ-ちゃんなんて名前をつけて、「ベッキ-ちゃん、ベッキ-ちゃん。あなたのオメメはどうしてそんなに大きいの?」などと、節をつけて歌ってます。よく聞いていると、何処かで聞いたことのあるようなメロディーだったり、知っている歌だったりしますが、全然新しいメロディーのこともあります。

 これは、もう彼女の作曲であり、作詞なのです。

 ところで、数日前に、音楽ユニオンの事務局から電話があり、「フォークを歌いたいとか、歌を作りたいとか言う人があるのですが、すずきさんの電話を教えても良いですか?」と連絡があり、「良いですよ」と返事をしたら、間もなく、その人から電話があり、携帯電話で話すのだが、ハウリングで判り難いので、「後日に、事務所に来てください」と、判り易く,場所と時間を約束しておいたところ、昨日ご本人が事務所にやってきました。

 自己紹介をして,「今までに作ったことがありますか?」と尋ねたところ、楽譜を出してみせてくれました。

 一応市販の五線紙ノートに楽譜と歌詞が書いてあります。しかし、セオリーを無視して書いているので変なメロディーだし,詩も余り意味が伝わらない詩なので、「まず,判り易く言うと「うた」と言う言葉は,もともと,「訴える」「訴う」と言う言葉から来たと,言われるように,自分の思いを誰かに伝えたい」それが歌の詩なのです。

 だから、そういう風にまず詩を書いてみてください。それから,曲は自分でメロディーを歌ってみて、相手に通じるメロディーを書くために、キーボード等があった方がよいですよ。

 とアドバイスしてあげて楽器屋さんを紹介してあげたら,喜んで御礼を言って帰りました

2009年8月 3日 (月)

8月1日 高石障害者作業所記念事業で、音頭とジャズと.....

8月1日(土)高石障害者作業所記念事業の催しが開催されました。
 大阪府高石市アプラホール大ホールでは16時から「大西ユカリとアロージャズオーケストラののコンサーと」3Fでは「SELPフェスタinたかいし・障害者の手作り作品&色紙展、そして夕方6時からは駅前広場で「納涼盆踊り大会」と言う大規模なもので、満員の大盛況でした。

 第1部は、20周年記念式典
 舞台上に浴衣姿も可愛らしく、仲間たちが登場、元気一杯、なかま元気音頭(すずききよし作詞・作編曲)を踊りました。

 ♪なかま元気音頭
             
① みんな元気か なかまたち ソレ
   「元気だよ 元気だよ ソレ」
   なかま音頭を歌おうよ ソレ
   「歌おうよ 歌おうよ ソレ」
   なかま音頭で踊ろうよ ソレ
   「踊ろうよ 踊ろうよ ソレ」
   みんなで輪になって 踊ろうよ 
   ソレ ソレ ソレ
   なかま音頭で 元気よく 踊ろうよ
   
 作業所の春、夏、秋、冬を、4番までの歌詞で表現しています。
  
  高石民謡連盟の皆様が「障害を持った仲間たちでも簡単に踊れる様に」振り付けして下さったと言うことですが、歌のリズムにマッチして、 みんなが愉しく踊っていました。

  高石市には、市制10周年の時に、私が作詞・作曲した、高石音頭があります。
 ピックアップの管弦楽団で録音し、河内音頭の宗家、初音家賢次さんの歌で、レコーディングしたことがあります。

 ( すずききよしは、この街では、民謡の作曲家として記憶されているかもしれません。)

 その後、映像で「高石共同作業所の紹介」に続いて、主催者挨拶があり、来賓のご挨拶。表彰式で1部は終わりました。

 休憩をはさんで「大西ユカリさんと、アロージャズオーケストラのコラボレーション」で 愉しいコンサートです。
 
 本ベルが鳴り、客電が消えて、司会役の私は、緞帳前に出て行きました。
 ピンスポットが当たったのでお辞儀をして「先ほど、可愛らしい浴衣を着て,仲間たちが元気よく踊っていました、
  あの歌「なかま元気音頭」を作詞,作曲した,すずききよしでございます。」とあいさつすると、大拍手が起きて、前の方から「センせー!」と掛け声が入って、びっくりしました。

  アロージャズオーケストラの演奏は、スタンダードナンバーのAトレインから、はじまり、MCがあって、ムーンライトセレナーデ、インザムードと進んで行くと、ジャズファンは目を閉じて、体を揺らせているのがステージ陰からでも見えました。

 セレソ・ロ-サがはじまると、気分はラテン、マンボ No.5のリズムでは,客席もお尻をむずむずさせている人が沢山いたようです。

  大西ユカリさんは,「人生いろいろ」昔、島倉千代子さんが、小首をかしげるようにして歌っていたこの歌を、パンチの聴いた声で、歌ったのでびっくりしましたが、今は、「この歌はこうでなくっちゃ」と思うようになったのは、ユカリさんの魅力かな?
   
 「東京ドドンパ娘」オリジナルをアレンジした「東京キューバン」のリーダーの見砂さんを思い出しました。「渡邊マリはこれがヒットしすぎて、ジャズを歌わせてくれない」とステーションのPDたちのことをぼやいていましたよ」と、呟くように言っていたのを・・。

 お客さんは、フルバンドによるスタンダード・ジャズから有名な映画音楽、華やかなラテンミュージックから、素朴なアンデスの楽器ケーナ、ハワイのトロピカルなサウンドをウクレレの名器を、名手の演奏で、堪能し、ユカリさんのパンチの効いた声で、フィーリングの良い歌 と気さくな「大阪の女」的な情のあるトークで、ご満足でした。

 コンサート終了後、盆踊り会場に足を運びました。みんな楽しそうに踊ったり、出店に、賑わっていました。私も、のどの渇きをみぞれ氷で潤しました。

 お天気もよく、主催者は、ほっとされたことでしょう。

 

2009年7月30日 (木)

さんたま屋さんでゲスト出演 7月28日(火)

 東京の国立市で、うたごえの仲間たちが、毎月定期的に最終火曜日に「うたごえ喫茶・さんたま屋」を催しています。その中で司会やうたごえリーダーをしているharuさんとミクトモになったのがきっかけで、バーチャルうたごえ喫茶「のび」の店主、エーちゃんがセッティングしてくださって実現しました。

 羽田空港で、エーちゃんと日野市で「うたごえ喫茶」をされている、前田さんご夫妻に迎えられ、空港のレストランで昼食を頂き、前田夫人のドライビングで、まず、府中駅前の「ホテル・ほまれ」まで直行、途中かなり混んでいたので、府中に4時半頃到着。ホテルにチェックインして、会場の国立市商協ビルに到着しました。

 途中サンセイ・ホールの前を通る時、「毎月の例会はここでやるのですが4,50人しか入れなので、今日は商協ビルでします」と、エーちゃんがガイドして下さいました。

 5時半開場ということでしたが、準備の最中でした。皆さんに挨拶してから、簡単なヴォイストレーニングとギターのチューニング、をしている内に、お客さんがどんどん集まってきて、賑やかになって来ました。

 次々とharuさんのリードで会場は次第に盛り上がっていきました。プロジェクターで画面に歌詞が映し出されて、みんな大声で歌いますが、昔はうたごえ喫茶というと歌集を見ながら、歌うのでお客さんは俯き加減だったものですが、これだとみんな良い姿勢で歌えるので良いですね。

 haruさんが「今日は、大阪からわざわざすずききよしさんがゲストでお見えになりますということで、プロの方や、ここのホールでゲスト出演された方が今日はお客さんになって見えています。」などと、紹介したり和気あいあいで進められましたが、ともしび以来の付き合いで30数年前からの付き合いの「ヤギさん」こと、うたごえ界の名エンターテナー青柳さんや、作曲家で詩人の髭爺さんとか、「すずききよしさんの作品で有名な「君の眸」を持ち歌にしている青梅市のうたごえサークルの皆さんです。」と紹介されました。

 このグループの「君の眸」は、中々のもので、二つのパターンで「一つは、ミュージカル劇団「カチューシャ」の人から教わったものです」というタイプを、「独特のアレンジです」という男声のアカペラから始まるタイプ」でした。

 ミュージカル劇団カチューシャは、1970年に初演した「タンポポが咲く時」〈君の眸は主題歌の一つでした。〉600回以上全国で公演したと言われています。

 青梅市のうたごえサークルの後がすずききよしの出番でした。最初はつかみで「私は、世の中の皆さんに、誤解されていまして、『ポリティカルすぎる』とか、『過激だ』とか、『社会派』とかレッテルを貼られたり、放送禁止になったりしていますが、これから歌う歌は、政治的とか社会派的とは全然関係御座いません、もしそのように聞こえたら、耳の方に医学的な問題があるかもしれないので、1度、耳鼻科の診断を受けて下さい」と前置きして、『庭のの小梅』を歌いました。初めは正常な耳の人が『何のこっちゃ?』と言う顔をしていた方も、「クスッ」それが「ウフフフ・・・」そして、笑いの輪がだんだん大きくなり・・大爆笑!!

 2曲目は、エーちゃんからリクエストで、「もしも君が」をうたいました。 最初に、お客さんを、上手側と下手側を半分から分けて、後半のハーモニーのところを、お客さんに練習しながら、♪「この街中を 花でうずめよう、」とハーモニーで、前半はカノンで「私のまねをして下さい」とコールしながら歌いましたが、1回だけで覚えて、皆さん元気良くシングアウト!だんだん会場が盛り上がりました。

 3曲目は、結構希望があったので「おいらの空は鉄板だ」をサワリだけ、と断って、1番を歌った後取材に地下に入った話、出稼ぎ労働者との会話、などがあって4番の「工事終わればよー、俺たちゃお払い箱だぜ・・・・」の後の語りでは、涙を抑える人もありました。    

 4曲目は、「有楽町で俺は待ってるぜ」で笑って貰って、5曲目の「イヴのブルース」の語りに入りました。会場では年配の男性が「クスクス」、「ゲラゲラ」つられて、街娼を知らない人も、笑いながら聴いている内にやがて、クライマックスになると、鼻をすする音が、聞えるほど、目頭を抑える人、ハンカチを出す人など・・・

 拍手の中で締めの挨拶CDのコマーシャルを一言、後はharuさんの司会で、愉しいうたごえタイムへ。次々と自信のある人たちは、前に出て歌い、みんなで盛り上がりました。

 この後は、2次会に行って、そこで、「乾杯の歌」で乾杯の後は、一時して、誰かが「てのうた」を未だ歌っていない。」と言い出し、「てのうた」をみんなで歌ったり、盛り上がり、最終電車に間に合わないからと、帰る人もあったけど11時まで、続きました。

 さんたま屋の皆さん。有難う御座いました。おっくんさん、haruさん、コーディネートから送り迎えから、楽器運びまで、御世話をしてくださったエーちゃん、日野の前田さんご夫妻、ご苦労様でした。大阪から駆けつけてくれて何かと、気を使った、木のつくUEDAさん、元気に励ましてくれたまるちゃん、地元のと言うより全国区なエンターテナー、ヤギさん、同業の髭爺さん、たくさん参加してくださった地元や、遠くから来て下さったミクトモの皆さん、有難う御座いました。

«「小西和人さんを偲ぶ会」に参加して